ミスタールマン 寺田陽次郎とマツダ多国籍チーム

ミスタールマン 寺田陽次郎と
マツダ多国籍チーム

ドライバーとして、自らもルマン挑戦29回と現役最多を誇る「ミスタ―ルマン」こと寺田陽次郎さん。寺田さんは、長らくマツダのモータースポーツの発展に貢献してきましたが、ルマン24時間レースでの勝利に向けては、長い経験からマシンの性能だけではない「チーム力」の醸成を目指し、その環境整備にも力を発揮されました。

1970年にベルギーのプライベーターがマツダ提供のロータリーエンジン搭載車でルマン24時間に出場したのが、マツダロータリーエンジンのルマンにおける最初の一歩でした。4年後の1974年には、マツダオート東京がフランスにおけるマツダ車インポーターの協力を得てルマン挑戦を果たしています。さらに1978年にはアメリカ・フロリダ州で行われたデイトナ24時間レースに、コースに慣れている現地のドライバーも招き入れ、サバンナRX-3で出場しました。1979年のルマンではフランスのドライバーをチームに加え、1981年からは英国のトム・ウォーキンショーレーシングと提携し、イギリスやオーストラリアのドライバーとと共にルマンを戦っています。このようにマツダチームは、常に現地の人々と力を合わせる多国籍チームを編成してきました。

これら初期の多国籍チームの編成に影響を与えたのが、マツダフランスであり、マツダUKの存在でした。日本からの物資の受け入れや輸送、移動用の車両提供まで多くの協力を得ています。また、トム・ウォーキンショーやピエール・デュドネ、デイビッド・ケネディやジャッキー・イクスなどチームに関わったキーマンたちとの出会いがマツダチームを成長させてくれました。マツダオート東京からマツダスピードとして独立したチームは、主にルマンの主催者ACOやFIAとの窓口としてチーム監督の大橋孝至さんが力を振るい、ドライバーとしてレースカーをドライブする一方、チームの円滑運営に尽力したのが寺田さん本人なのです。ルマンのレースは週末だけではなく、車検や練習、予選等も含めて1週間以上前から過ごす長帳場のレースです。早い段階から衣食住の重要性に気を配っていた寺田さんは、多国籍チームに対応できるキュイジーヌチーム(お料理班)を取り入れ、ドライバーの体調管理を行うドクターチームの導入や古いミュルサンヌコーナーにあったサイニングピットで24時間サインボードを出し続ける専門のサイニングチームと契約するなどの裏方業務をも仕切っていました。4ローターエンジンで上位入賞を狙うようになった1989年以降は、日本の他、イギリス、フランス、ドイツ、アイルランド、ベルギー、スウェーデン、ブラジルなど、ドライバーと関係者を含めて100名を越し、優勝した1991年には総勢120名もの所帯となったマツダチームは、多国籍言語が飛び交う国際チームとなっていました。

多国籍の大世帯を切り盛りする上で大変なのは、食事を提供するキュイジーヌチームです。寺田さんが協力を求めたのは、当時お料理修行のためにパリに居住していた脇雅世さん(現料理研究家)です。脇さんは1981年から1991年まで11年間、マツダチームのシェフを務め、経験を重ねていきました。食事習慣や宗教観、生活文化の異なる人々が円滑にルマンウィークを過ごせるよう、しかも夏場となるルマンで食中毒などの事故を起こさないことにも気を配らなければなりません。食事は時にメンバー同士のコミュニケーションを滑らかにすることができる一方、好き嫌いや習慣により口にできる食事がないとパフォーマンスが発揮できないことも多々あります。また、走行スケジュールがない金曜日には、「敵に勝つ」という源を担ぎ、ビフテキとトンカツを振る舞い、クルマにもピットクルーにも厳しい日曜日の朝には胃に優しいソーメンを用意するなど、寺田さんと脇さんは様々なアイディアを繰り出して、チームを和ませてくれました。120名分の食事を提供するとなると、材料の買い出しや調理スペースはもちろんのこと、食事テーブルや食器の用意、給仕スタッフのやりくり、洗い物などそれらの業務を仕切るのは大変なことです。東京の繁華街で人気レストランを切り盛りするようなものです、しかもメニューは三カ国語表記でないと理解されません。マツダチームの食事は、当時参加していた日本のライバルチームの方々達も食べにくるほど評判でした。

以上のように、ルマンにおけるマツダチームは、伝統的に多国籍国際チームであり、多くの国の様々な方々の協力の上に成り立っていました。また、その大所帯を切り盛りする寺田さんや脇さんたちの地味ながら重要な裏方業務がなければ、1991年の成功を納めることはできなかったでしょう。これも重要なルマン24時間レースの文化なのです。

「ミスタールマン」寺田さんは現在でもマツダのモータースポーツアドバイザーを務められており、同時にACOの極東理事としてルマンと日本の架け橋を続けておられます。近年では、2011年の東日本大震災を経験した中高生の自立を支援するSupport Our Kidsプログラムの運営を実行されています。また、脇さんはお料理研究家として、TVや雑誌などで活躍されています。

寺田陽次郎さん

寺田陽次郎さん プロフィール

1947年生まれ 兵庫県神戸市出身
1965年レースデビュー、1969年にマツダオート東京入社、社員ドライバーとして多くのレースに参加する傍ら、マツダスポーツキット開発にも尽力。
1972年より東洋工業(現マツダ)契約ドライバーとなり、市販車両の開発にも寄与。
1974年シグマMC74でルマン24時間レースに初出場。
1979年のRX-7 252iを経て1982年自身4回目のルマン24時間レースで初完走(RX-7 254)。以後4回のクラス優勝を含め、ルマンでの入賞多数。自己最高位は1995年の総合7位。
2008年までルマン27年連続出場と29回の出場は現役日本人ドライバー最多記録(2021年現在)。
その他、株式会社オートエクゼ代表取締役社長、ACO(フランス西部自動車クラブ) 理事、Support Our Kids理事、NPO法人次代の創造工房 会長、観光庁スポーツ観光マイスターなどを歴任。自らのレーシングチーム である有限会社テラモスでのモータースポーツ活動など現役で幅広く活躍中。

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