第Ⅱ章
ロータリースピリットで逆境に勝つ
マツダが他社に先駆けてロータリーエンジン搭載車、コスモスポーツを生み出したことは、日本国内、また海外市場で「日本の一メーカーが実現した」と驚きをもって受け入れられました。マツダはその技術力を世界で証明してみせたのです。
1967年といえば、日本市場は高度経済成長時代。国民の所得増加や高速道路網の拡大計画実施などモータリゼーションの真っただ中であり、前途洋洋でした。そんな中、ロータリーエンジン搭載車第2弾のファミリア・ロータリークーペが1968年に発売されました。ファミリアはマツダの世界戦略車として位置づけられていました。しかし、その第一歩となる米国輸出に大きな壁が立ちふさがります。
ファミリアロータリークーペ
深刻化する公害問題を受け、米国連邦政府は1968年に排出ガス規制を発令。1970年には、1975年以降に販売するモデルは、排気ガス中の燃え残り成分であるHC(炭化水素)の排出量を従来の1/10以下にしなければならないという厳しい大気清浄法、通称「マスキー法」が米国連邦議会で可決されたのです。ロータリーエンジンはNOx(窒素酸化物)の排出が少ない一方、HC(炭化水素)は多い傾向にあったため、「ロータリーエンジンが米国を走ることはないだろう」とまで言われていました。
この困難を克服するためにマツダが選んだのは、HCに空気を加えて再燃焼させる「熱反応器(サーマルリアクター)方式」でした。その実用化に向け、材料や構造などすべての面から新たな開発に挑んだ結果、1973年、ついにマツダのロータリーエンジンは米国環境保護局(EPA)によるマスキー法試験に合格。同年、日本国内ではルーチェAP(AP=アンチ・ポリューション)が低公害優遇税制適用第1号車の認定を受けました。
左:各国へ輸出されるファミリアロータリークーペ
中:ルーチェAP
右:サーマルリアクターを採用したロータリーエンジン
上:初代RX-7
下:初代RX-7に搭載された12A型ロータリーエンジン
しかし、苦難は続きます。排出ガス規制問題を乗り越えた矢先の1974年、世界を第一次オイルショックが襲ったのです。当時燃費効率のよくなかったロータリーエンジンにとって大きな打撃であり、社会からも「ガスガズラー(ガソリンのガブ飲み車)」とまで非難される状況に。この新たなる試練に、マツダは「ロータリーエンジンの存続は社会的責任であり、お客さまへの信義の問題だ」と1974年、燃費を40%改善するための5カ年計画「フェニックス計画」を打ち立てます。フェニックス(不死鳥)の名のもとに、「技術で叩かれたものは技術で返せ」と挑戦を繰り返す技術者たちの不屈の精神は、いつしか「ロータリースピリット」と呼ばれるようになりました。
やがて一人の技術者が、サーマルリアクターから出た熱を利用して二次空気を温め、再利用するという熱交換器方式のアイデアを得、30%強の燃費改善に成功。それまでの開発で実現していた20%を加え、マツダはついにフェニックス計画の目標を上回る50%強の燃費改善を果たすこととなったのです。1978年、マツダは米国ラスベガスでロータリーエンジン専用の量産スポーツカー、RX-7を発表。ここにマツダのロータリーエンジンの新時代が幕を開けました。RX-7はル・マン24時間耐久レースや世界ラリー選手権をはじめ、様々なモータースポーツに挑戦しました。中でも北米では、デビューレースのデイトナ24時間レースにて鮮烈なクラス優勝を獲得。以降も勝利を重ね、スポーツカーとしての速さと耐久性を両立していることを証明するとともに、多くのファンに愛される存在となっていきます。
また、1974年からマツダオート東京(のちのマツダスピード)として挑戦を開始したル・マン24時間耐久レースでは、1982年にRX-7で初完走。1983年以降はプロトタイプ車両にロータリーエンジンを搭載し、ル・マン挑戦を続けていきます。そして1991年、700馬力を誇る4ローターロータリーエンジンを搭載したMazda787Bで、ついに日本車初となる総合優勝を獲得。1974年から数えて18年目、13回目の挑戦で手にした栄冠でした。
左上:ル・マン24時間耐久レースで初完走を果たしたRX-7
右上:700馬力を誇る4ローターロータリーエンジン
下:Mazda787B