ファミリア(1963年~)
第3章:2代目~ファミリアからプレストへの成長、そしてロータリー・センセーション
1960年代の後半、昭和40年代に入ると、大衆車と呼ばれた小型乗用車の個人所有が増加しはじめ、それによって国内自動車メーカー間の競争も熾烈になっていった。新しく発売される小型車のエンジンは、大半が1,000cc~1,100ccへ排気量を増大していった。初代ファミリアも、高出力化を狙ったハイカムシャフトを採用する1,000cc直列4気筒OHVで58psのアルミ製エンジンを搭載した「1000シリーズ」を67年1月に投入した。
この1967年といえば、国内の資本の自由化が行われ、海外からの投資受け入れが可能になることから、日本企業の総合力が問われることになった。自動車メーカーも、その実力がはかられることになる。
マツダは、同67年11月、ここにファミリアセダンシリーズを一新した。エンジンは、初代後期の1000シリーズのものを引き継いだが、デザインは『オーバルシェイプ』と呼ぶ、丸みを活かしたモダンな姿であった。また、ヘッドライトは当時流行の角型で、三角窓のないフロントサイドドアウィンドウ、曲面ガラスなど、新しい要素を採り入れていた。サスペンションは、フロントにマクファーソンストラットを採用している。
マーケット戦略を特徴付けるのは、「オリジナル」と呼ぶ最小装備の廉価モデルを打ち出し、これに消費者が好みの装備を追加していくための多彩なアクセサリー部品を用意したことだった。それは現代の、「バリュー価格」と、「オプションパーツ」の先駆けであった。
2代目ファミリアの発売からわずか3ヵ月後の68年2月には、小型車に対するゆとりと快適性の求めに応じた、1,169ccのOHVアルミ製68psエンジンを搭載する「ファミリア1200」が発売となる。「さらに一つ上の…」という欲求は、続く70年3月の「ファミリアプレスト」セダンの誕生へとつながっていく。それは、まさにファミリアの一つ上級車の位置づけで、これには、73psの1,300cc直列4気筒OHCエンジンを搭載していた。このエンジンは、新開発の鋳鉄製シリンダーブロックを採用していた。
一方、68年7月には、コスモスポーツに続くロータリーエンジン搭載車となる「ファミリアロータリークーペ」が誕生した。排気量491cc×2の10A型2ローターエンジンは、100psで、最高速度は180km/hに達した。小型の車体を活かし、0~400mの加速は、16.4秒の俊足であった。
翌69年7月には、4ドアセダンにもロータリーエンジンを搭載し、「ファミリアロータリーSS」と名のった。
そして、70年4月には、ロータリーエンジン搭載車もファミリアプレストロータリーシリーズに集約することになった。
ファミリアロータリークーペは、世界各地の市場へも「マツダR100」の名称で輸出をした。その70年代を迎えるという時代は、ちょうど排ガス規制が動きだそうとした。アメリカ・カリフォルニア州を中心に深刻化していた光化学スモッグの原因がクルマの排ガスにあるとして、マスキー上院議員による大気清浄化改正案、いわゆるマスキー法が、70年にアメリカ連邦議会に提出されたのであった。
ロータリーエンジンは、レシプロエンジンに比べ炭化水素(HC)の排出量が多く、排ガス規制を達成できないのではないかとの憶測が流れ、「その将来はない」という声も出たほどだった。だが、マツダは熱反応器(サーマルリアクター)を開発し、HC処理を行い、70年のアメリカ連邦排ガス規制を通過、マツダR100は北米市場へ参入を果たしたのである。
〈ロータリークーペ〉はまた、モータースポーツの分野でも大活躍した。69年のシンガポール・グランプリでの優勝をはじめ、ベルギー、ドイツ、イギリス、南アフリカのサーキットで、独特のかん高いエキゾーストノートを響かせ、駆けたのであった。