ファミリア

ファミリア(1963年~)

第1章:ファミリア誕生前史

1960年代(昭和30年代後半)の日本経済は、第2次世界大戦後の復興と、保護育成の時代を経て、ようやく開放体制へ移行しようとしていた。昭和35年に内閣総理大臣に就任した池田勇人は、その年の暮れの第2次池田内閣で「所得倍増計画」を打ち出した。これを契機に、日本は高度成長の発展を遂げることになる。

日本の自動車生産と販売も、こうした社会情勢を背景に急成長し、1960年には16万5,000台であった乗用車生産が、70年にはその19倍の317万8,000台を超える規模となる。これは、次の10年の倍増と比べても破格の成長といえた。この間、乗用車といえども個人所有の比率は61年に12%にすぎなかったものが、3年後の64年には22%に延び、人々のクルマ所有の欲求は日ごとに高まっていた。

1920年(大正9年)1月に東洋コルク工業として創業したマツダ(84年5月に、東洋工業から社名変更)は、27年(昭和2年)に東洋工業と社名変更後、29年から工作機械の製作に乗り出し、31年には3輪トラックの生産を開始した。戦後の1958年(昭和33年)には小型4輪トラック、60年に軽乗用車「R360クーペ」を発売、61年にはドイツのNSU社およびバンケル社と、ロータリーエンジンに関する技術提携を結ぶなど、次々に事業展開し、自動車市場への進出をはかっていった。マツダは、総合自動車メーカーの体制を目指していた。

マツダの積極的な姿勢を世に示すため、61年(昭和36年)の第8回東京モーターショーでは、「マツダ700」という小型車のコンセプトカーを出展した。しかし小型車は時期尚早ということで、軽乗用車の「キャロル」を翌62年に発売する。
当時の日本のモータリゼーションは、63年5月には鈴鹿サーキットで第1回日本グランプリが開催され、同年7月には名神高速道路が尼崎~栗東間の71kmが開通、翌64年には東京オリンピックが開かれることもあり、首都圏の道路整備は急ピッチで進められていた。


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