ロータリーエンジン開発物語

ロータリーエンジン開発物語

第Ⅰ章
未踏の世界に挑んだロータリーエンジン四十七士たち

1960年代初頭、自動車市場において激化する競争を勝ち抜き、またさらにグローバルな発展を遂げるためには、マツダ(当時・東洋工業)にとって商品・技術競争力を飛躍的に高めることは大きな課題でした。その頃、構造がシンプルで小型・軽量・高い静粛性かつ高出力を特長とするロータリーエンジンは、夢のエンジンと言われ、多くの自動車メーカーが注目していました。社長の松田恒次(当時)は「会社が生き残るためには独自の技術が必要だ」と考え、他社に先駆けて、そのロータリーエンジンの実用化を目指しました。しかし、その実用化は苦難の連続でした。

まずマツダが採用したのは、それまでにも多種多様な仕組みが開発されてきたロータリーエンジンの中で、「バンケル・ロータリーエンジン」という方式でした。その仕組みを学ぶため、西ドイツのNSU社に技術者を派遣。しかしそこでマツダの技術者たちが目にしたのは、「チャターマーク」という大きな障壁でした。

松田恒次社長(当時)

バンケル・ロータリーエンジンは、ローターが三角形のおむすび型をしているという特徴があります。気密性を確保するためにその三つの頂点に取り付けられた「アペックスシール」が、まゆ型のローターハウジングの内面を擦りながら高速で回転するため、内面のクロームメッキがものの数時間で洗濯板のようにギザギザになってしまうのです。
これが、「悪魔の爪痕」と呼ばれる異常摩耗「チャターマーク」であり、この問題の解決なくして、ロータリーエンジンの実用化はありえませんでした。

左: NSUから最初に送られてきた試作エンジン/右:チャターマーク

左:開発の様子/右:試作品の数々

マツダ内では、47人の若い技術者を集め、さっそくロータリーエンジン研究部が発足しました。まったく未知の世界へ踏み込む彼らを、山本健一部長は赤穂浪士になぞらえて「ロータリー四十七士」と呼び、こう語りかけました。「これからは、寝ても覚めてもロータリーエンジンのことを考えてほしい」。寝食を忘れたロータリーエンジン開発のスタートでした。
しかし、あらゆる材質のアペックスシールを作り、挙げ句には馬や牛の骨まで試してみたものの、チャターマーク解決の糸口は、いっこうに見つかりませんでした。学会や業界ではロータリーエンジンの実用化を疑問視する声が高まり、社内でも「予算の無駄遣い」と冷ややかな視線を浴びる日々。不安と焦燥に苛まれながら、四十七士たちはひたすら実用化を信じて耐えるのみでした。

上:コスモスポーツ
下:世界で初めて量産された2ローターロータリーエンジン

そんな中、ようやく1963年、ブレークスルーが訪れます。「アペックスシールの形状を工夫し、『周波数特性』を変えてみてはどうか」。そんなアイディアから、シールの先端近くに十字の孔を空けた「クロスホローシール」を試作。テスト後に分解したエンジン内部には、あのチャターマークはどこにも見当たらなかったのです。さらに翌年には、日本カーボン社の協力を得て、アルミの隙間をカーボンで埋める複合材のアペックスシールが完成。これにより、マツダのロータリーエンジンは、一気に実用化への道を突き進み始めたのでした。

こうして誕生したマツダ初のロータリーエンジン搭載車が、コスモスポーツです。コスモスポーツはロータリーエンジンを搭載する前提でデザインされたクルマで、それまでにない斬新なスタイルも話題を呼びました。
実はコスモスポーツは発表を前に、「販売店に協力してもらえば、実用的で有益なデータが得られるだろう。ここまで来て実用化でつまづいたら、『やっぱりロータリーエンジンはダメだ』となる。実に残念じゃないか」という松田恒次社長の提案により、全国の販売店による試乗評価テストが行われました。販売店から報告された課題も一つ一つ克服し、ロータリーエンジンを一歩一歩完成へと近づけていったのです。
1967年5月30日、マツダはついにコスモスポーツを発表。世界で初めて、2ローター・ロータリーエンジン搭載車の量産に成功したのです。度重なる挫折を乗り越え、誰もなしえなかった目標に向かって開発を続けた四十七士たちの信念と意地、そして技術が、ようやくついに実を結んだ瞬間でした。


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