MAZDA 787B ・ 優勝ドライバー&チーム

MAZDA 787B ・ 優勝ドライバー&チーム

787B INTRODUCTION

MAZDA 787B

マツダロータリーエンジン搭載のグループCレースカーの集大成として誕生したマツダ787B。マツダの開発陣と実行部隊であるマツダスピードが総力を挙げて開発し、1991年の第59回ルマン24時間レースではカーナンバー55番、シャシーNo.787B-002のマツダ787Bが1周13.6kmのサルトサーキットを362周(約4,923km)を走破し、日本車初の総合優勝を飾りました。レース中はピットイン時の給油、タイヤ交換、ドライバー交代、ブレーキパッド交換等のルーティン作業以外、タイムロスにつながるようなトラブルは発生せず、設定されたラップタイムを正確に刻み、時にはペースアップしてライバル車を追い上げ、引き離してトップで栄光のチェッカーフラッグを受けました。

SPECIFICATIONS

全長 x 全幅 x 全高 ……… 4,782mm x 1,994mm x 1,003mm
ホイールベース ……… 2,662mm
トレッドF/R ……… 1,534/1,504mm
車重 ……… 830kg以上
モノコック ……… カーボンコンポジッド
サスペンションF/R ……… プルロッド/ロッカーアーム
ダンパー ……… ビルシュタイン
ブレーキ ……… カーボンディスク&ブレンボキャリパー
ホイール ……… RAYS F/12×18 R/14.75×18
タイヤ ……… ダンロップ F300-640-R18 R355-710-R18
トランスミッション ……… マツダ-ポルシェ 5速+リバース
クラッチ ……… ボーグ&ベック トリプルプレート
エンジン ……… R26B 4ローター 654cc×4 (FISA指定レシプロ換算 4,708.8cc)

国際色豊かなマツダチーム

1979年のルマンにマツダオート東京チームがマツダRX-7 252iで参加した際、メンバーはドライバーを除くとわずか4名。これに現地の販売会社であるフランスモーターから数名のサポートスタッフを加えた陣容でした。当時の状況では「やるしかない」「行けば何とかなる」といった精神論的な考えがあったことは否めませんが、それでも最初から日本とフランスの混成チームであったことも事実です。そして、この年のルマンで味わった様々な苦杯(宿泊/食事/輸送/移動/パーツ準備等々)こそが、その後のマツダチームの構成に大きな変化をもたらすことになりました。1981年からTWRやアランドッキングレーシングとのジョイントに加えフランスモーターからのサポートも増え、日本・フランス・イギリスの三カ国体制になり、その後ドライバーを中心にアメリカ、ベルギー、アイルランド、ドイツ、ブラジル、スウェーデン等、更に国際色豊かなチームへと発展していきます。 チームミーティングなど重要な場面ではそれぞれの通訳が介在して正確な情報共有に努めますが、パドックやピットでの通常会話はそれぞれの母国語が飛び交いながらも、スタッフは日本語、英語、フランス語が混ざり合った会話とボディランゲージを駆使してお互いのコミュニケーションを図っていました。チームの食事を司るケータリングチームも多国籍的な要望に応えられるメニューを取り揃えていました。これらの集大成が、1991年のルマンにおける120名ものチーム体制であったといえるでしょう。

フォルカー・バイドラー(ドイツ)

フォルカー・バイドラー(ドイツ)

フォルカー・バイドラー(ドイツ・ハイデルベルク生まれ)
平均的ドイツ人より体が小さい彼はモーターレーシング向きで、85年にドイツF3のチャンピオンになってF3000、F1へとステップアップしました。自身の体の管理には人一倍の気を使い、専属のトレーナーを雇って食事や睡眠をも管理し、最適なパフォーマンスを引き出す努力を怠らない人でした。

ジョニー・ハーバート(イギリス)

ジョニー・ハーバート(イギリス)

ジョニー・ハーバート(イングランド・ブレントウッド生まれ)
彼は早くから才能を見出されて、F1にステップアップしました。陽気な性格で、いつも笑いを周囲に提供するような人柄です。ドライバーを引退したのちは、レースTV番組のコメンテーターやレポーターに引っ張りだことなりました。

ベルトラン・ガショー(フランス)

ベルトラン・ガショー(フランス)

ベルトラン・ガショー(ルクセンブルグ生まれ)
フランス国籍ですが、自らをEC(現在のEU)人であると語る国際人です。F1ジョーダンチームの正ドライバーに指名されたこともありました。器用なドライバーで、多忙のため最も遅くチームに合流しましたが、RE車のドライビングのコツをいち早く身につけました。