ルマン24時間レースのエピソード

ルマン24時間レースのエピソード

映画「栄光のルマン」とマツダ

映画「栄光のルマン」とマツダ

スティーブ・マックイーンの主演でヒットした映画「栄光のルマン」をご存知でしょうか。アメリカ映画らしいスペクタクル溢れるカーアクション映画でした。この映画の舞台となったのが、1970年のルマン24時間レースで、マツダREを搭載したジェブロンB16マツダのピットの隣がマックイーンのガルフポルシェのピットでした。マツダチームは同年7月のスパ24時間レースに出場する準備の最中だったのですが、マックイーンにスパでマツダR100クーペに乗ってもらえないか交渉しよう、という話があったそうです。もちろんこの大スターへのコンタクトさえもできず、話は立ち消えになったそうです。

ハンドリングマシンだったRX-7 254

ハンドリングマシンだったRX-7 254

初代RX-7を改造した1982年のRX-7 254は、3年前にルマンにエントリーしたRX-7 252iの発展系マシンでした。ボディを捩らせながら走る姿は、現代の地を這うような姿のGTマシンとは趣が異なりますが、ハンドリングマシンとして乗りやすかったようです。1979年に始まったアメリカのIMSAシリーズにサービス派遣されたマツダの技術者達が全米各地のRX-7ユーザーの使用状況を調べ、RX-7レースカーのシャシー剛性を補う改善メニューを多数編み出していました。それらの改善策をこのRX-7 254にも盛りこまれており、ドライバーの寺田陽次郎は「快適なハンドリングのクルマだった」とコメントしています。

マツダ717CのCD値は驚異の0.277

マツダ717CのCD値は驚異の0.277

車両の空気抵抗値を示す「CD値」という言葉を使うのが1980年代の自動車業界では流行っていました。空気を切り裂いて走る、というイメージがあったからでしょう。実際にはリフト(CL)値とのバランスが重要なのですが、ルマン出場車の中で最も非力だったマツダ陣営では、せめて特徴的なストレートでタイムを稼ごうと、CD値が極端に低いマシン「マツダ717C」を開発しました。そのツルッとしたノーズと丸い車体から「そら豆号」と呼ばれたりしましたが、このマシンのCD値は驚異的な0.277でした。しかし結局、コーナー部分や路面の凸凹を越えると挙動が不安定になることから、ドライバー達には不評だったようです。

マツダ737Cのボディが真っ白なわけ

マツダ737Cのボディが真っ白なわけ

1985年のルマンを走った85号車マツダ737Cは、マツダ初のグループCジュニアマシン「マツダ717C」の熟成完成版としてルマンに投入されました。周囲の期待も大きく、日程的にもマンパワー的にも無理を承知しながら3台のマシンを組み上げ、その都度サーキットでテストして仕上げていました。この85号車もルマン直前の同年6月第1週まではルーフ周りがレッドとシルバーに塗り分けられていましたが、イギリスで行ったサーキットテストで燃料が漏れるトラブルが発生して炎上。3日間で全焼したマシンを修復して間に合わせましたが、塗装だけは間に合いませんでした。

日本車初のシングル入賞を果たしたマツダ757

日本車初のシングル入賞を果たしたマツダ757

1987年に総合7位に入賞したマツダ757の活躍は、TVのライブ放送もあって日本でもかなり話題になりました。新聞や雑誌でも大々的に取り上げられ、ドライバーや監督がTV放送の深夜番組に呼ばれたことなどから、多く注目を集めました。それだけ、栄光のルマンで入賞することの難しさが一般の日本人にも浸透していた証拠ですね。その反響に気を良くしたマツダは、東京・銀座の大型百貨店の外壁に「マツダ757、日本車初のルマン7位入賞」という巨大バナーを掲出。道ゆく人々や日曜日の歩行者天国を楽しむ買い物客がそれを見上げていました。

マツダ747や777が存在しないのは

マツダ747や777が存在しないのは

マツダ717Cの開発を進めている1982年当時、ちょうど3年後の1985年に2代目サバンナRX-7の発売が決まっており、同車の開発コードが「P747」であることから遡って最初のグループCジュニアマシンを「717」とすることが決まりました。その流れで次の3ローターGTPマシンも747と付けずに757となりました。モデル進化が進み767の次期車両は777になるはずだったのですが、767を熟成させたモデルという意味で767Bとなりました。さらに次のモデルは、767Bから2ステップ発展したという意味を込めて787となっています。本当は777(なななななな)が発音しづらかったからなのかも?

787Bのカーナンバー55番とは

787Bのカーナンバー55番とは

1991年のルマンに参戦するためには、当時のFIA世界選手権であるSWC(スポーツカーワールドチャンピオンシップ)全8戦へのエントリーが義務付けられていました。マツダはSWCへの投入マシンを前年型のマツダ787 1台とし、開幕戦鈴鹿からモンツァ、シルバーストン、ルマン、ニュル、マニクール、メキシコと続き最終戦オートポリスで日本に戻るというスケジュールとなっていました。そのSWCへのシリーズエントリーナンバーが18番であり、ルマンに追加エントリーした2台は主催者ACOが指定した55番と56番になりました。ちなみにSWC国内戦である鈴鹿とオートポリスには18番と58番で、国内選手権(JSPC)では201番と202番であり、55番はルマンのみに使用されたカーナンバーという事になります。

語り継がれる三次試験場内の「飽くなき挑戦」石碑

語り継がれる三次試験場内の「飽くなき挑戦」石碑

1991年にルマン24時間レース総合優勝を果たしたのち、ロータリーエンジン生みの親である当時の山本健一会長は、この成果をマツダの資産のひとつとして後世に語り継がれる「かたち」を残したいと考えました。その結果、マツダの開発拠点のひとつである広島県の三次自動車試験場内テストコースに記念の碑を建立することとなりました。1992年2月に除幕されたその石碑には、山本会長の揮毫による「飽くなき挑戦」の文字が刻み込まれています。合わせて記されている「1991年6月23日」の日付は、マツダ787Bがトップでルマンのフィニッシュラインをクロスした日を示しています。

MX-R01とは

MX-R01とは

1992年、ルマンを含むSWCシリーズは3.5L NAエンジンを搭載するマシンのみが参加を許されるルールに変更となり、マツダは同シリーズ参戦用マシンとしてTWRとシャシーを共同開発し、エンジンデベロップメント社(ジャッド)と共に開発したMV10型V10エンジンを搭載したニューマシン「マツダMX-R01」を用意しました。同年のルマンでは前年優勝したドライバークルー3名が駆る5番のマシンが決勝スタート直後から首位を走る好走を見せましたが、電気系のトラブルに見舞われ後退。結果はポディウムにあと1歩届かずの4位フィニシュとなりました。新しい規定に合わせたマシンは空力を最優先したシェイプのためコックピット内部スペースは最小限となり、長身のB・ガショーには長時間ドライブすることが困難となり、6番のドライバーで小柄なM・S・サラに交代してレースを続けました。

2011年の”復活”
史上最大のレストアプロジェクト&サルトサーキットの激走!

2011年の”復活” 史上最大のレストアプロジェクト&サルトサーキットの激走!

ルマン優勝20周年を迎えた787B-002 55番は、徹底的なオーバーホール整備を受けて、再びサルトサーキットを走る機会を得ました。1991年当時のメカニックや開発を担当したメンバーを中心に約半年をかけてフルレストアされ、マシンは完全復活しました。2011年6月のルマン24時間レース直前に、優勝ドライバーのひとりであるJ.ハーバートのドライブでフルコースを全開走行。観客からは拍手と大歓声で歓迎を受けました。1991年ゴール直後、脱水症状で表彰台に上がれなかったハーバートが、20年後のこの日に表彰台に押し上げられるという、ACOの粋な計らいもありました。ちなみに優勝マシンである787B-002はルマン後に永久保存とされたため、残るJSPC参加用として急遽製作された787B-003も同時にレストアされ、動態保存されています。

ジョニーの激走

55号車のレストア

ショートエピソード

シェブロンB16

シェブロンB16

ロータリーエンジンを初めてミッドシップに搭載した純レーシングマシン。当時はロータリーエンジンをリヤに搭載した、ショートエキゾーストでの性能検証がまだ無かったため、フロントエンジンのツーリングカーと同等の性能を発揮するためエキゾースト長を同じ長さにする必要がありました。そのためB16のエキゾーストは異様に長く複雑な取り回しとなってしまいました。

RX-7 252i

RX-7 252i

252iのホイールはフランス製のゴッティでした。ヘッドライトのシビエと合わせフランス製品を採用することで現地での交流やサービスを少しでもよくしようとした結果の採用でした。しかしながら、ゴッティホイールは課題も多く、1981年の253からレイズ製に変更となりました。対してシビエは日本でもメジャーブランドでサポート体制もしっかりしており、1992年まで継続採用されました。

RX-7 253

RX-7 253

2021年にフルレストアされ、オートモビルカウンシルにも展示されたRX-7 254はこの253のJUNカラーのマシンがベース。252が253の1号車DOMONカラーになり、ホワイトボディから製作した253 2号車(JUNカラー)が新車であり、それをベースに254の1号車としてアップデートされました。254の新車である2号車は1982年のWEC富士6時間でのアクシデントで廃車となっています。

マツダ737C

マツダ737C

この年のルマンの86号車はニコンがスポンサーながらマシンカラーやチームウェアはシルバー、イエロー、ホワイトが主体でした。このカラーの組み合わせがしばらくマツダスピードのイメージカラーとして使われ、トランスポーターやサービスカーなども同様のカラーリングが施されました。

マツダ757 1986年

マツダ757 1986年

この年はラッキーストライクがメインスポンサーとなり、2台ともにまったく同じカラーリングとなりました。また757のシルエットはこれまでのC2マシンに比べると他のCカーと識別が付きづらくなりました。このためチームのタイムキーパーはロータリー車特有のエキゾーストノートで他車と区別し、フロントスクリーンのハチマキの色によってゼッケンの識別を行っていました。まだ自動計測システムが導入されていない時代、各チームとも試行錯誤して自チームとライバルチームのタイム計測の正確性を競っていました。

マツダ767 1988年

マツダ767 1988年

1988のルマンでは、直前にオフィシャルから「レース中の燃料補給時にリフューエラーはジェット型のヘルメットを着用すること」と指示されましたが、チームには顎の部分がないジェット型ヘルメットは用意されていませんでした。急遽ドライバーである片山義美のスペアヘルメットで対応することになり、片山と合わせて3人が同時に同じヘルメットを被るという珍しい光景となりました。

マツダ767B 1989年

マツダ767B 1989年

1989年はデイトナ24時間レースに新型車の767Bで出場し、総合5位に入賞した年です。決勝レースは霧によって4時間以上中断しましたが、ルマン前にサイド排気や4ローター等の実戦テストが出来た事、その後の富士、鈴鹿テスト等でリニア可変吸気システム開発を開始など、同年のルマンの好結果につながり、総合優勝のための課題が浮き彫りになった年となりました。

マツダ787&767B

マツダ787

1991年のルマンから、グループCカーはNA3.5リットルエンジンのカテゴリー1とその他のエンジンであるカテゴリー2のみの区分となったため、1990年の787と767Bが最後のIMSA GTP仕様でのエントリーとなりました。これにより1986年から使っていたルマンでのIMSA GTPクラスである事を示す3桁ゼッケンもこの1990年が最後となりました。